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科学と医学の違いについて・・・



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現代の西洋医学は、科学技術にささえられている。それは言うまでもなく、手術のツール、検査、診断のツール、そして治療医療機器など膨大な設備がある。例えば、眼科に行けば、かなりのエレクトロニクス技術の粋を集めた検査器具で様々な検査がなされる。視力検査はもちろんのこと、超音波による眼球の距離だとか色々な検査が現在では可能になっている。

また、そうした検査結果を画像にして、瞬時に伝送することで、大病院みたいに多くの医師が診察をしているところでは、カルテと一緒に、リアルタイムで医師の手元に届く。大病院でのそうした検査システムではかなりオートメーション化されていて、昨今は、最後の支払いまでクレジット決済がOKとなっている。

もちろん、検査は医師ではなく、各専門の検査技術士で行われるが、これとは別に、丁寧な?病院ではカウンセラーの担当までついている。白内障の治療を例にとると、最初は眼の視力検査から始まって、様々な検査の後、医師の診察と、そしてまた、必要に応じて目の精密検査が行われる。

そして、手術に関するカウンセラーとして、若い女性が親切に手術に関する注意事項とか、本人の希望とかで、相談にのってくれる。しかし、ここで、様々な素晴らしい医療検査機器を目の当たりにしていた患者は、「医学とは、科学なのだ!」ということが錯覚であること気付き始める。

若い女性のカウンセラーは、「白内障術後の焦点距離の選択は、どれを希望されますか?」と聞いて来る。すると、患者は、「現在、右目(-1.25)と、左目(-5.5)との度数差が大きいが、あなたが、言われるように、手術をする左目に対して挿入レンズで補正して遠くに合わせた場合、うまく右目とバランスがとれますか?」と、質問すると、「遠くは良く見えると思いますが、その代わり、遠視があるので、近くはメガネを掛けないと見難いです。」と、若干違った答えが返ってくる。

そこで患者がまた質問する。「いや、めがねを掛けることに関しては、とくに問題にしていないが、挿入レンズでそんなに度数を合わせて、あとでメガネの調整はうまくいきますか?」と聞き返す。「それは、大丈夫ですが・・・裸眼で、近くが良く見えるのと、遠くが良く見えるのとではどちらがよろしいですか?」と、挿入レンズの選択だけを迫る。

つまり、挿入レンズで、遠、中、近の選択だけを求められるのだ。一般的に、室内では眼鏡を掛けずにおられるので中距離が便利なようだが、遠くを見る必要がある車の運転、或いは、近距離の読書においては、メガネの遠近両方の眼鏡が必要になる。

そこでやっかいなのが、右目と左目との度数差があって白内障の手術が、片目だけの場合、選択で悩むことになる。将来的にもうひとつの目も、いずれ白内障になる恐れがあるから、将来もう一つの目を手術することを考えれば、最終的に両方遠方が見えるようにしたほうがベストであると言われる。

すると、将来を見越して初回の片目の度数を0までにもどすことがベストということになるが、果たして、そうした場合、もう片方の目より良く見えることになり・・・バランス上違和感が起きないか?という心配が起こる。そんな心配を言うと、「それなら、度数を0に補正するコンタクトレンズで体感してください」と答えてくれる。

ところが、患者はこう質問する。「白内障だから、今、コンタクトをつけて度数を補正しても、目が良く見えないから・・・意味がないのでは?」と、聞く。「ああそうですねえ・・・でも、感じだけでもつかんでもらえれば・・・如何ですか?」と答える。

すると、「これだけ、科学的に検査されているはずですから、挿入レンズは、この度数で大丈夫と何故言えないのですか?」と患者は食い込む。すると、「いや~、やはり患者さんによってこればかりは、やってみないと・・・こちらから、こうとは、言い切れないところがあります。」と、かわされる。

こうした会話が、今度はコンタクトレンズによる仮想体験をサポートする担当者と患者間でも、似たような押し問答が繰り返される。つまり、理想の挿入レンズの度数の意思決定は、カウンセラー担当でもなく、医師でもなく、結局、患者にゆだねられている。これは何故だろう?聞くところによると、一度、挿入した眼内レンズを再度入れ替えることは、余程のことがない限り行わないとのことである。(リスクが大きいのと再手術は好ましくないとのこと)

それならば、科学技術の粋を集めた検査を行っておきながら、もっとも大切な最終的な度数の設定を患者の意思にゆだねるというのは変な話である。つまり、ファージなところです。

「やってみなければ、わからないことがある。だから、責任は取れない。」ということです。とすれば、やはり、医学は必ずしも、患者のすべてを把握できていないと云うことですね。「だいたい過去の手術の実績でうまくいくと思うが、失敗例もある。だからかならずしも100%保証できるとはいかない。」と、逃げ道を作っておく必要がある。だから、手術に失敗しても、余程の過失がない限り、手術料を返金することはまずない。これは、病院の立場から弁護すると、「患者の主観で、治療の結果をとやかく言われてはたまらない。」ということでしょう。

東洋医学を西洋医学の医師が、嫌うところは、鍼やお灸などの治療に当たって、治癒に対する科学的根拠がないことをあげる・・・言い方を変えれば、科学的な立証がないことをいう。科学的根拠とは、すなわち、定量的、定性的な分析によるその効果をいう。ところが、西洋医学においても、そうしたことが、曖昧なところが多々ある。

薬にしても、白内障の進行を抑える薬として、近所の眼科院でカリーユニという点眼液を処方して永らく治療していたが、手術をする大病院では、その薬を処方していないと言う。理由は、学会で有効性がないと発表されたからだと言う。では、効きもしない薬を何故、他院では処方するのか?

医師に言わせれば、個体としての患者がすべて違うので、進行を止めるのに効果があったか否かの判定がとれないというのである。それならば、定量的な判定が出せていないことになり、何故薬として承認されたのか?疑問である。家庭電化製品を修理に出して直してもらう時、消費者の主観なんぞとは関係なく、一方的に修理して元にもどって帰ってくる。

もし、直っていなければ、お金なんぞ払わなくても、相手はそれに対して別に反論はしない。すなわち当たり前のことである。ところが、医学としての医療行為の場合は、科学的なようであってそうとは限らない領域と、患者と病院側との主観と客観がかなり絡み合って、すんなりとはいかないところがある。どちらかというと治療する側に分がある。患者はどちらかというと弱い立場にある。

だから、『大藪医者』にはかからないことが賢明である。科学的な思考を持った小生は、名前柄、医師にならなくて良かったとつくづく思う。

by   大藪光政
 

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大藪光政
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男性
誕生日:
3500/01/01
職業:
コンサルティング/システムエンジニア
趣味:
大樹木の鑑賞
自己紹介:
科学は少年の頃からのあこがれの対象でした。今日の科学の発展は、そうなるであろうと想像して来たものばかりです。そしてこれからの進歩の中にも興味深いテーマが数多く存在しています。そうしたものを時々イメージしながら楽しむことが唯一の自己発見なのかも知れません。
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